弥生時代について学んでいると必ず登場するのが、邪馬台国と卑弥呼です。卑弥呼という人物のことは、学校でも学んだ!歴史は苦手でも、それは覚えている!という人も多いでしょう。
ここでは、そんな邪馬台国と卑弥呼に注目して、少し詳しく見ていきたいと思います。興味がある方は是非読んでみてください!
邪馬台国と卑弥呼ついて知ろう!
それでは「邪馬台国」と「卑弥呼」について、理解していきましょう。
先程も書きましたが、弥生時代と言えば「卑弥呼」の登場でしょう。歴史上の人物としてとても有名な方です。邪馬台国という国の女王としてもとても有名です。
そんな有名な人物ですが、何をした人なのか詳しくは知らないという方もいると思いますので、ここでは、邪馬台国と卑弥呼について少し詳しく解説していきます。
邪馬台国と卑弥呼を知ろう!
- 邪馬台国はいつできたのか
- 邪馬台国はどこにあるのか
- 邪馬台国はどんな国なのか
- 卑弥呼ってどんな人?何をしたの?
それでは早速、「邪馬台国と卑弥呼」について学んでいきましょう!
邪馬台国はいつ頃できたのか!
それではまず、邪馬台国について理解していきましょう。まずは邪馬台国がいつ頃出来たのかということを解説します。弥生時代にできたということは分かりますが、もう少し詳しく見てみましょう。
邪馬台国が出来たのは、弥生時代の間で、180年ごろに卑弥呼を女王として「邪馬台国」となったと言われています。その当時は、倭国(日本)は大変乱れていて、大乱が多く起きている状態でした。そこで、邪馬台国の卑弥呼を女王として、争っていた諸国を共立させることで争いを収めたのです。
邪馬台国はどこにあったのか!
次は、邪馬台国がどこにあったのかということについてみていきましょう。
邪馬台国がどこにあったのか、実は邪馬台国の所在は、まだはっきりと決定されていないのです。邪馬台国の所在については、はっきりとした史料が残っていないのです。邪馬台国のことが書かれている中国の史書である「魏志倭人伝」の内容が、邪馬台国の所在を証明するためには内容的に不十分であることから、論争が続いているといえます。
今のところ邪馬台国の所在地については2つの説があります。
- 畿内説
- 九州説
邪馬台国の所在はこの2か所の説が有力となっています。九州は分かるけど「畿内」という言葉を知らないという人のために補足しておきます。
畿内とは
畿内とは日本で朝廷のあった首都周辺の4~5の国の総称。その範囲に属する地のことです。
では具体的にどこかと言いますと、畿内説では、邪馬台国の候補とされている奈良県で見つかった纏向遺跡がある奈良県の周辺、つまり近畿地方のあたり。九州説では吉野ケ里遺跡などから佐賀県や福岡県など九州北部の範囲としています。
邪馬台国!畿内説と九州説のどちらが有力か!
邪馬台国の所在地について2つの説があることはわかりましたね。そこで気になるのが、どっちが有力なの?ということですね。それでは今のところどちらが有力な説なのかを見ていきましょう。
畿内説の有力ポイント!
畿内説が有力だという人たちの意見から、その有力ポイントをまとめてみました。
2009年に奈良県桜井市の、邪馬台国の有力候補であった纏向遺跡で、3世紀半ば(西暦250年ぐらい)の大型構造物の跡が発見されました。更に、卑弥呼の墓であるといわれている大きな前方後円墳なども近くにあります。
卑弥呼が女王として考えると、邪馬台国には大きな規模の集落があったと考えられることから、この纏向遺跡の規模がそれにふさわしいと考えるようになりました。
一方、九州で見つかっている邪馬台国の有力候補である吉野ケ里遺跡など複数の遺跡が見つかってはいるものの、纏向遺跡と比べて規模が小さいということから、邪馬台国と考えるのが少し弱いのではないかという考え方もあります。
九州説の有力ポイント!
それでは反対に九州説が有力だというポイントについてまとめてみましょう。
邪馬台国は中国などと交易をしていたといわれており、九州北部からはその交易を裏付けるようなものが多数出土しています。そして九州北部から見つかっている遺跡、吉野ケ里遺跡はその代表とも言えます。
近畿で見つかっている纏向遺跡では、そのような交易をしたようなことを裏付けるものが出土していません。このことから九州説が有力という見方をする人もいるのです。
そしてもう1つ九州の中でも、南薩摩にあったのではないかという説も浮上しています。
邪馬台国の所在地を決定づけるものはないのか?
畿内説と九州説、どちらも有力と考えられる根拠があります。しかし、このままではいつまでたっても決着はつきませんね。一体どうなったら、そして何が見つかったら決着となるのでしょうか。実は、邪馬台国の所在地を決定づけるために最も有力となるあるものがあるのです。
それは「封泥(ふうでい)」と呼ばれるものです。
封泥とは一体何かといいますと、魏から卑弥呼へ贈られた贈答品に封をするために使われたものです。封印する必要があるものを箱などに入れて紐で縛った後に、その紐がほどけないように、粘土で固めて印をしたのです。これが封泥です。
魏から卑弥呼へと贈られたものは、卑弥呼がいる場所で開封されて、その場にあるはずです。ということはこの封泥の発見が、邪馬台国の所在地を決定づけるものになると考えられます。
邪馬台国ってどんな国なのか!
邪馬台国は女王卑弥呼が治めていた国です。30あまりの小国を従えた国だとされています。
そして魏志倭人伝にも卑弥呼などが登場することから、「魏」との交流があったことが分かります。この交流のなかで、魏の王は卑弥呼に「親魏倭王」の名と、金印、銅鏡などを与えたとされています。このことからも、卑弥呼は魏の王からの信頼もあり、親密な交流が続いていたと考えられます。
邪馬台国が存在した頃は、気候的にも温暖な状態に恵まれていて、人々は裸足で生活していたとされています。そして驚いたのが、この同時の男性は、年齢に関係なく刺青をしていたのです。
卑弥呼ってどんな人!何をしたの?
次は邪馬台国の女王である卑弥呼についても学んでいきましょう。歴史上でとても有名な卑弥呼ですが、邪馬台国の女王であったということは知っている人もいるかもしれませんが、それ以外には一体どんなことをしてきた人なのかは知らないという人もいますので、少し詳しく見ていきましょう!
卑弥呼は中国の史書である「魏志倭人伝」の中で「倭国の女王」と記されています。倭国では男性が統治していた小さな国があり、その小国同士で、稲作に必要な土地や水をめぐって、争いが絶えない大乱の状態でした。そこで卑弥呼という女性を女王として立て、30ほどの小国を共立した連合国家のような組織を作ったので。それが邪馬台国です。
ここで不思議なのが、なぜ争いが絶えなかった時に、卑弥呼という女性を女王にしたことで収まったのか、その秘密を見てみましょう。
卑弥呼には不思議な力があったように伝えられています。不思議な力というよりも、「鬼道」と呼ばれる「占い」を使って国を治めていたのです。この不思議な神秘的な存在に人々は従ったのでしょう。そしてもう1つ卑弥呼は「魏」との交流を盛んにおこなっており、魏の王からも「親魏倭王」という名をもらい、金印や銅鏡を贈られています。
このことから、魏の後ろ盾があることもあり、卑弥呼の支配力や権威は高まっていったのではないかと考えられています。
しかし、卑弥呼の死後、男の王を立てたところ、再び争いが起こってしまい、次は卑弥呼の親戚にあたる「壱与(いよ)」を女王に立てました。そして再び争いは無くなったのです。
金印の存在は邪馬台国の所在を!
先程邪馬台国の所在地について有力な候補地について考えました。そして「封泥」が見つかればそこが所在地として有力ということも分かりました。
そしてもう1つ、「金印」の存在です。実は金印は福岡県で見つかっているのです。金印についても勉強して覚えている人もいるでしょう。じゃあ金印が見つかった福岡が邪馬台国の所在地なんじゃないの?と思う人もいるでしょう。
しかし、この福岡で見つかった金印は「漢委奴国王」印なのです。卑弥呼に贈られた金印は「親魏倭王」印で、実はこの2つは別のものです。そして卑弥呼に送られた「親魏倭王」の印は見つかっていません。だから、邪馬台国の所在地はまだ分からないままなのです。
邪馬台国・卑弥呼に関する気になる言葉!
- 弥生時代
- 親魏倭王
- 金印
- 魏志倭人伝
- 魏
- 稲作
- 纏向遺跡
- 吉野ケ里遺跡
- 封泥
- 壱与