ここで学ぶのは飛鳥時代です。この飛鳥時代は、皆さんもご存じの「聖徳太子」が登場する時代です。この「聖徳太子」は最近では「厩戸王(うまやどおう)」と書かれていますが、ここでは「聖徳太子」で通していきます。飛鳥時代は、古墳時代の終末期と重なりますが、始まりは聖徳太子が推古天皇の摂政になった時で、終わりは710年の118年間を飛鳥時代としています。古墳時代と重なっている期間もありますが、古墳時代とは分けて考えられるのが一般的です。
飛鳥時代を知ろう!
それでは「飛鳥時代」について、しっかりと理解していきましょう。
先程も書きましたが、飛鳥時代のでは「聖徳太子」が登場します。推古天皇の摂政になった時から飛鳥時代始まります。そこから始まる飛鳥時代について、これからいろいろと学んでいきましょう!
飛鳥時代を知ろう!
- 飛鳥時代の大まかな流れ
- 飛鳥時代の特徴
- 飛鳥時代の環境
- 飛鳥時代の人々の暮らし
それでは早速、「飛鳥時代」を学んでいきましょう!
飛鳥時代の大まかな流れ!
飛鳥時代の流れを簡単な年表に表してみました。飛鳥時代は、聖徳太子が推古天皇の摂政になったころから、710年の都が平城京に遷るまでの118年間のことをいいます。年表を見ても分かるように、この時代は色々な法律や制度などが決められた時代でもあります。それでは、飛鳥時代の特徴を学んでいきましょう!
飛鳥時代の特徴!
飛鳥時代の最大の特徴としては、やはり聖徳太子の登場でしょう。推古天皇の「摂政」という役職に就いたころに飛鳥時代の始まりです。
ここで気になるのが「摂政」という言葉ですね。まずはこの「摂政」についてみてみましょう。
摂政とは
幼帝や女帝に代わって政務を行う役職の事。現在の法律では、天皇が十八歳未満であった場合に、天皇の名で国事を行う憲法上の機関のこと。皇族が就任します。
つまり聖徳太子は推古天皇に代わって政務を行っていたということになります。実は推古天皇は日本史上最初の女性天皇なのです。そしてこの推古天皇のもとで、聖徳太子はその才能を発揮して、冠位十二階や十七条憲法などを制定して法令や組織の整備に力を入れていったのです。
そしてもう一人、この飛鳥時代の政治に大きくかかわった人物がいます。それは「蘇我馬子」です。代々の天皇を補佐する役職の「大臣(おおおみ)」を務めており有力な豪族でした。
聖徳太子が亡くり、推古天皇も崩御された後は、蘇我氏の力が勢いを増していきました。そしてそれを良く思っていなかったのが「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」です。中大兄皇子は「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」とともに蘇我氏を滅ぼし、天皇中心の政治を進めました。これが「大化改新(たいかのかいしん)」といわれるものです。
大化の改新後、中大兄皇子は天皇として即位し「天智天皇」となりました。天智天皇が崩御するとどうなるでしょう。そうです、またその後継になるための争いが起きるのです。天智天皇の子供である「大友皇子(おおとものおうじ)」と天智天皇の弟である「大海人皇子(おおあまのおうじ)」との間で争いが勃発しました。これが西暦672年の「壬申の乱(じんしんのらん)」です。
この壬申の乱の結果、勝利した大海人皇子が「天武天皇(てんむてんのう)」として即位しました。
天武天皇のあとは、妻が持統天皇として引き継ぎ、その後は文武天皇が引き継ぎました。文武天皇の頃に、大宝律令が制定されたのです。
またこの時代は外国との交流も盛んでした。年表からも分かるように「遣隋使」や「遣唐使」など、使者を送り技術や制度、大陸文化を学んでいたと考えられています。
飛鳥時代の文化!
この時代では、「飛鳥文化」といわれる仏教文化でした。この飛鳥文化が大化の改新まで続きました。大化の改新後は「白鳳文化」といわれる藤原京を中心とした天皇や貴族中心の華やかな文化でした。
飛鳥文化の特徴
飛鳥時代の初期から、大化改新までの期間に栄えた文化で、百済や高句麗の他、中国大陸の南北朝時代の文化やインドなどの文化を影響を受けており、西アジアやギリシアと繋がる要素も持っており、飛鳥や斑鳩の地(どちらも現在の奈良県)で仏教文化として多くの寺院などが建立されました。初めて仏教文化が栄えたのがこの飛鳥文化だと言えます。
建立された寺院としては斑鳩の法隆寺や蘇我馬子が建立した飛鳥寺、難波の四天王寺などが有名です。掘立柱ではなく、礎石の上に柱を立てて、屋根には瓦葺を用いた大陸風の技術を用いた寺院建築が見られます。
彫刻では木造のものや金銅造のものがあり、代表的なものは「飛鳥寺釈迦如来像(飛鳥大仏)」や「法隆寺百済観音像」などがあります。
白鳳文化の特徴
大化改新から都が平城京に遷るまでの間に繫栄した文化です。中国風の藤原京を中心に天皇や貴族を中心とした華やかな文化でもありました。
白鳳文化を初唐文化の影響を受けた文化で、代表的な作品は彫刻では薬師寺の金堂薬師三尊などがあり、仏教美術に優れた作品が多く作られています。
飛鳥時代の人々の暮らし!
飛鳥時代の人々の暮らしは一体どんなものだったのか、この時代になると、身分の高い人と一般の人との間に、生活の差が見えてきます。身分の高い人と、一般の人の生活の違いを感じながらも飛鳥時代の人々の暮らしを見てみましょう!
住居!
身分の高い人たちの住居は徐々に複雑な造りへと変化していき、用途が違う建物(住む家、台所や馬屋など)が連なったものが広い敷地に建てられていました。
一方一般の人の住居は、あまり変化がありませんでした。田畑に近いところに集まって住んでいました。住居自体はなんと弥生時代からあまり変わらず、竪穴住居に住んでおり、倉庫として使用していたのも高床式倉庫でした。
食べ物!
身分の差は食べ物の差にも表れていました。食事についても一般の人の食事は弥生時代の食事とあまり変化がなく、主に玄米を食べており、質素なものが主食となっていました。
しかし身分が高い人の食事は、魚や肉、種類も豊富になり、玄米を食べていましたが、それ以外でもお漬物や酢の物などもありました。お酒も飲みながらの食事もあったようです。
服装!
飛鳥時代の服装は、身分が高い人たちについては、色も鮮やかになり、着飾るというイメージになっています。しかし、一般の人の服装については、これも弥生時代からあまり変化はなく。布を巻いているような服装でした。
弥生時代の頃から飛鳥時代に向けて、人々の身分の差はより大きくなっているように感じます。
飛鳥時代のまとめ
ここまで飛鳥時代について簡単に紹介してきました。最後に飛鳥時代についておさらいしながらまとめていきましょう。
実は「日本」という言葉が使われ始めたのは、飛鳥時代だと言われています。それまでは「倭」と言われていました。
飛鳥時代は地を治める王の力がより強力になった時代です。そしてこの王の権利をめぐって貴族たちの争いも激しくなっていきました。
大化改新前には大和政権における土地や人民の支配体制は私地私民とばれる体制でした。
私地私民とは
豪族たちが自分の土地(私地)を持つことが出来て、人を奴隷ように扱う(私民)ようなことができる制度。
やがて大化改新後に、完全ではありませんが、公地公民と言われる、全ての土地や人々は国のものであるという体制へと変わりました。
飛鳥時代は、日本が律令国家の確立へと大きく進んだ時代でもあります。その代表的な律令が701年に完成した「大宝律令」です。文武天皇の時代に、唐の律令をお手本として刑部親王や藤原不比等らによって作られました。
貴族たちの争いが激しくなった時代ですが、一方文化的にも栄えた時代でした。日本の歴史の中で、日本の政治的、文化的な面において大きな変化を遂げた時代だと言えます。
飛鳥時代に関する気になる言葉!
推古天皇 | 聖徳太子(厩戸王) | 法隆寺 | 飛鳥文化 |
白鳳文化 | 中大兄皇子 | 中臣鎌足 | 私地私民 |
藤原不比等 | 大宝律令 | 大化改新 | 壬申の乱 |