「聖徳太子を陰で操った悪党」の嘘。最新史実で暴く蘇我馬子の本性と、現代に活きる「最強のNo.2戦略」

「聖徳太子を陰で操った悪党」の嘘

「聖徳太子を陰で操った悪党」の嘘

  1. なぜ教科書は「蘇我馬子=極悪人」にしたがるのか?
    1. 誰もが植え付けられた「天皇を殺した大悪党」というバイアス
    2. 最新史実が明かす真実:馬子は日本を救った「冷徹なリアリスト」
    3. 現代の過酷な競争を勝ち抜く「No.2の生存戦略」
  2. 「政治家・蘇我馬子」の規格外の実績
  3. 蘇我馬子の生涯と激動の歴史的背景:権力を独占した3つの決定的瞬間
    1. 【ターニングポイント1】587年・丁未の乱:宗教戦争に見せかけた「最先端テクノロジー」争奪戦
    2. 【ターニングポイント2】592年・崇峻天皇暗殺:国家分裂を防ぐための冷徹な危機管理
    3. 【ターニングポイント3】593年〜・推古朝の成立:リスクを排除した「三頭政治」の完成
  4. 誰も書かない裏話:聖徳太子は「部下」だった?史実が明かす2人の真の主従関係
    1. 「天才リーダー」としての聖徳太子と、「最高権力者」としての蘇我馬子
    2. 冠位十二階も十七条憲法も、馬子の「承認」がなければ実現しなかった
    3. なぜ馬子は、自分よりも太子を「前面」に立たせたのか?
  5. 5. 現代のサバイバル術:トップに立たず実利を取る「最強のNo.2戦略」
    1. 教訓1:矢面に立つリスクを避け、自分をカモフラージュする「看板」を立てる
    2. 教訓2:自分より優秀な人の才能に嫉妬せず、味方につけて使い倒す
    3. 教訓3:個人的な「感情」を完全に排除し、物事をシステムと結果で判断する
  6. 実利を選んだリアリストの生き方に、あなたは何を学ぶか
    1. 後世の「勝者」によって改ざんされた逆臣のレッテル
    2. お飾りのトップで消耗するか、影の支配者として果実を手にするか
    3. 次回予告:馬子の孫「蘇我入鹿」の致命的なミスから学ぶ、組織崩壊のトリガー
  7. 推古天皇に関する気になる言葉!

なぜ教科書は「蘇我馬子=極悪人」にしたがるのか?

誰もが植え付けられた「天皇を殺した大悪党」というバイアス

日本の歴史の授業で、蘇我馬子(そがのうまこ)の名を聞いて良い印象を持つ人はまずいません。 教科書の記述や一般的な歴史の本において、彼は常に以下のような「絶対的な悪」として描かれてきたからです。

  • 自分の権力を拡大するためだけに、崇峻(すしゅん)天皇を暗殺させた。

  • 聖徳太子(厩戸王)という聖人の足を引っ張る、強欲で傲慢な守旧派のボス。

  • 天皇をもしのぐ巨大な墓(石舞台古墳)を造らせた、思い上がった臣下。

「天皇を殺した大逆臣」――この強烈なワンフレーズだけで、私たちは馬子のすべてを理解した気になり、彼を「思考停止の悪人リスト」へと放り込んできました。しかし、ここで立ち止まって考えてみてください。本当にそれほど単純で愚かな悪党が、当時の日本で数十年にわたり権力の頂点に君臨し続け、崩壊寸前の国家を舵取りすることなどできるでしょうか。

結論から言いましょう。あなたが植え付けられてきた「蘇我馬子=極悪人」というイメージは、のちに彼らを滅ぼしたクーデターの首謀者たち(中大兄皇子や中臣鎌足ら勝者側)が、自らの政権を正当化するために作り上げた「都合の良いプロパガンダ(歴史の改ざん)」にすぎません。

最新史実が明かす真実:馬子は日本を救った「冷徹なリアリスト」

近年の歴史研究や文献の再検証によって、蘇我馬子の評価は180度覆りつつあります。 ベールを剥ぎ取った先に現れるのは、感情や迷いを一切排除し、圧倒的な結果だけで国を動かした「冷徹な超一流のリアリスト(現実主義者)」の姿です。

馬子が活躍した6世紀末から7世紀初頭の日本(倭国)は、内憂外患の極みにありました。国内では有力豪族たちが既得権益を巡って血みどろの内乱を繰り返し、海外ではアジアの超大国である「隋(ずい)」が誕生し、一歩間違えれば日本は大陸の属国にされかねない国家存亡の危機だったのです。

そんな時代に、馬子は古い因習や神話にすがる保守派を冷徹に排除し、次のような大改革を断行しました。

  • 先進国の文字・建築・政治システムが詰まった「仏教」という超最先端テクノロジーの強硬導入。

  • 軍事と宗教の既得権益を独占していた最大のライバル・物部(もののべ)氏の完全解体。

  • 外交能力に欠け、独裁に走ろうとした天皇の排除(クライシス・マネジメントとしての暗殺)。

馬子が行ったすべての行動は、個人の私欲のためではなく、「蘇我氏の生存」と「日本という国家の近代化」を最短ルートで達成するための、極めて合理的な経営判断だったのです。

現代の過酷な競争を勝ち抜く「No.2の生存戦略」

なぜ今、私たちは蘇我馬子という1400年前の人物を学び直す必要があるのでしょうか。 それは、彼が実践していた権力掌握術が、現代の過酷なビジネス社会や競争社会を生き抜くための「最強のNo.2戦略」そのものだからです。

馬子は、自らがトップ(天皇)の座に就くことのリスクを誰よりも知っていました。トップは常に矢面に立ち、すべての責任を負わされ、敵の標的になります。だからこそ彼は、トップの椅子は血縁の女性(推古天皇)に譲り、実務のリーダーには若き天才(聖徳太子)を据えて広告塔として目立たせました。

そして自分は、「誰をトップにするかを決める権利(最高決定権)」と「実利」だけを完璧に手中に収め続けたのです。

この記事では、馬子がどのようにして組織の影の支配者となり、天才・聖徳太子を動かしたのか、その生々しい戦略を解説します。読み終えた時、あなたの組織観、そしてこれからの生存戦略は、ガラリと変わっているはずです。

「政治家・蘇我馬子」の規格外の実績

蘇我馬子がどれほど凄まじい政治家だったのか。彼が成し遂げた、現在の「日本」という国のカタチを作る決定打となった圧倒的な実績を、まずは3分で把握できるようにまとめました。

学校の教科書ではサラッと流されがちですが、これらはすべて、当時の日本の常識を根底からひっくり返すレベルの規格外の行動です。

  • 日本初の本格的寺院「飛鳥寺」の建立と、最先端文化(仏教)の定着

    • 単なる宗教の信仰にとどまらず、大陸の先進的な文字、建築技術、学問、そして高度な政治システムを「仏教」というパッケージとして日本に導入した。馬子が建てた飛鳥寺(法興寺)は、当時の最先端テクノロジーの結晶であり、国家近代化のシンボルとなった。

  • 古代最強の軍事豪族「物部氏」の完全殲滅(587年・丁未の乱)

    • 朝廷の軍事と神事を数百年間にわたって独占し、最大のライバルであった物部守屋(もののべのもりや)を武力で徹底的に打ち破った。これにより、バラバラだった諸豪族の権力を蘇我氏一強へと集中させることに成功し、強力な中央集権国家への足がかりを作った。

  • 前代未聞の危機管理「崇峻天皇の暗殺」(592年)

    • 自分を排除しようと軍事的な暴走の兆候を見せ、国家の安定を揺るがしかねなかった崇峻(すしゅん)天皇を、配下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて暗殺させた。臣下が天皇を暗殺するという、日本史上でほぼ唯一の、極めて冷徹かつ迅速なクライシス・マネジメント(危機管理)をやり遂げた。

  • 日本初の女帝「推古天皇」の擁立と、驚異の「共同政治」体制の確立

    • 天皇暗殺という大事件の直後、自身の姪にあたる推古天皇を日本初の公式な女帝として即位させた。さらに、圧倒的な能力を持つ甥の聖徳太子(厩戸皇子)を政治の前面に立たせることで、世論の反発を完璧に抑え込みながら、自らは最高権力者として国を動かす鉄壁の政治体制を築き上げた。

  • 東アジアの大帝国「隋」と渡り合うための国家改革を主導

    • 聖徳太子の実績として有名な「冠位十二階」や「十七条憲法」の制定、そして中国(隋)への「遣隋使の派遣」は、すべて最高権力者である馬子の強力な財力と承認があって初めて実現した。また、太子とともに日本初の歴史書『天皇記』『国記』を編纂し、国家としてのアイデンティティを確立した。

蘇我馬子の生涯と激動の歴史的背景:権力を独占した3つの決定的瞬間

蘇我馬子が権力の頂点へと登り詰め、古代日本の政治を完全に掌握するまでには、国家の運命を左右する3つの大きな転機(ターニングポイント)がありました。

馬子が単なる「強欲な権力者」ではなく、国家の行く末を見据えた「冷徹な現実主義者」であったことが、これらの史実から鮮明に浮かび上がります。

【ターニングポイント1】587年・丁未の乱:宗教戦争に見せかけた「最先端テクノロジー」争奪戦

学校の授業では、蘇我氏と物部(もののべ)氏の戦いは「仏教を受け入れるか(崇仏派)、排除するか(排仏派)」という純粋な信仰の争い(崇仏論争)だと教えられます。しかし、これは史実の表面しか見ていません。本質は、新時代の主導権を巡る「一族の生き残りをかけた政治闘争」でした。

  • 当時の歴史的背景

    • 敏達(びだつ)天皇、用明(ようめい)天皇が相次いで崩御し、次の天皇を誰にするかという皇位継承問題が勃発。蘇我氏は排仏派の穴穂部皇子(あなほべのおうじ)を暗殺し、物部氏との全面対決へ突入した。

  • 馬子が行動を起こした本当の理由

    • 馬子にとって仏教とは、単なる宗教ではなく、渡来人がもたらす「最先端の文字、建築技術、医学、国際外交ルート」という国家近代化のためのテクノロジーパッケージだった。

    • 古い神事を司り、軍事力で朝廷を牛耳ってきた物部守屋(もののべのもりや)を排除しなければ、日本は東アジアの国際社会から取り残され、蘇我氏の未来もないと判断したため、一世一代の武力行使に踏み切った。

  • 結果と歴史への影響

    • 聖徳太子ら皇族をも巻き込んだ大軍勢で物部氏の拠点を急襲し、守屋を敗死させて物部氏を完全に滅ぼした。これにより、朝廷内の最大のライバルがいなくなり、蘇我氏一強の時代が幕を開けた。

【ターニングポイント2】592年・崇峻天皇暗殺:国家分裂を防ぐための冷徹な危機管理

物部氏を滅ぼした馬子は、自らの血を引く泊瀬部皇子を「崇峻(すしゅん)天皇」として即位させます。しかし、ここから日本史最大のタブーである「臣下による天皇暗殺」へと歴史が動きます。

  • 当時の歴史的背景

    • 崇峻天皇は、何でも自分を差し置いて決定していく馬子に対して強い不満を抱くようになった。ある日、献上された猪の首を指して「いつか自分が憎いと思う者(馬子)の首を、この猪のように斬ってやりたい」と口走ってしまい、これが馬子の耳に届く。

  • 馬子が行動を起こした本当の理由

    • 通説では「馬子が自分の権力を守るために邪魔な天皇を殺した」とされる。しかし最新の歴史学では、天皇が近臣たちを集めて独断で軍事行動を起こそうとしていた形跡が指摘されている。

    • もし天皇が暴走して蘇我氏と全面戦争になれば、せっかく物部氏を倒してまとまりかけた日本が、再び血みどろの内乱(国家分裂)に逆戻りしてしまう。馬子は一族の防衛だけでなく、国家の安定を最優先するため、お抱えの暗殺者(東漢直駒)を送り込み、崇峻天皇を冷徹に葬り去った。

  • 結果と歴史への影響

    • 前代未聞の「天皇暗殺」という大罪を犯しながらも、馬子は一切失脚しなかった。それほどまでに朝廷内での馬子の権力と、当時の危機的な状況における「必要悪」としての判断が、他の豪族たちにも抗えないものだったことを証明している。

【ターニングポイント3】593年〜・推古朝の成立:リスクを排除した「三頭政治」の完成

天皇を暗殺するという大事件を起こした直後、馬子が取った行動こそが、彼の政治家としての真骨頂です。彼は自分がトップの座を奪うのではなく、前代未聞の政治システムを作り上げました。

  • 当時の歴史的背景

    • 崇峻天皇亡き後、誰が即位しても再び蘇我氏との対立や豪族間の内紛が起きるリスクがあった。そこで馬子は、敏達天皇の皇后であり、自身の姪でもある額田部皇女を「推古(すいこ)天皇」として即位させた。日本史上で初めて、本格的に認められた「女帝」の誕生である。

  • 馬子が行動を起こした本当の理由

    • 自分が天皇になれば、全国の豪族から「逆臣」として激しい反発を受け、滅ぼされるのは目に見えていた。そのため、大王家(天皇家)の結束の象徴として誰も文句の言えない血筋の「推古天皇」をトップに据えた。

    • さらに、抜群の聡明さを持つ若き「聖徳太子(厩戸皇子)」を皇太子・摂政に大抜擢し、実際の政治の実務や外交のリーダー(フロントマン)を任せた。

  • 結果と歴史への影響

    • 「推古天皇(権威の象徴)」「聖徳太子(実務・外交)」「蘇我馬子(財政・軍事・最高決定権)」という、日本史上に類を見ない鉄壁の「三頭政治(トロイカ体制)」が完成した。馬子はすべてのリスクを背負うトップの椅子を他人に譲ることで、自身は最も安全な場所から国をコントロールし続けた。

誰も書かない裏話:聖徳太子は「部下」だった?史実が明かす2人の真の主従関係

「天才リーダー」としての聖徳太子と、「最高権力者」としての蘇我馬子

学校の教科書や偉人伝を読むと、「聖徳太子(厩戸皇子)が1人で次々と素晴らしい改革を行い、蘇我馬子はそれを後ろから眺めていた(あるいは邪魔をしていた)」という印象を受けがちです。しかし、当時の朝廷における実際のパワーバランス(権力の格差)を見れば、そのイメージは史実と大きくかけ離れています。

当時のリアルな二人の立場を整理すると、以下のようになります。

  • 蘇我馬子の立場:「大臣(おおおみ)」

    • 朝廷の最高職であり、財政・軍事・諸豪族の統率をすべて一手に握る、名実ともに国内最大の権力者。

  • 聖徳太子の立場:「皇太子」かつ「摂政(せっしょう)」

    • 推古天皇を補佐し、実際の政治の実務や外交を執り行う若きエリートリーダー。

現代の組織や役割に例えるなら、聖徳太子は現場の指揮を執る「最高責任者」ですが、蘇我馬子はそれを任命し、すべての決定権を握る「最高権力者」でした。当時の政治の世界において、馬子の承諾なしに国を動かすことなど、皇太子である聖徳太子であっても絶対に不可能だったのです。

冠位十二階も十七条憲法も、馬子の「承認」がなければ実現しなかった

聖徳太子の偉大な功績として誰もが習う「冠位十二階(603年)」や「十七条憲法(604年)」の制定。これらは、生まれついた家柄ではなく個人の才能を評価するシステムや、官僚としての心構えを説いた、当時の日本にとっては天天地がひっくり返るほどの大改革でした。

しかし、これらの改革は、聖徳太子が独断でひらめいて勝手に作ったものではありません。

  • 特権を奪われる旧勢力(豪族たち)の猛反発

    • 家柄の特権を奪われるわけですから、周囲の豪族たちが猛反発するのは目に見えていました。それを力づくで抑え込み、改革を強行できたのはなぜでしょうか。

  • 馬子が背後で放っていた「圧倒的な睨み」

    • それは、朝廷の軍事力と富を完全に掌握していた蘇我馬子が、太子の改革案に全面的に賛成し、背後から圧倒的な力で他の豪族たちを威圧していたからです。

さらに、中国(隋)の進んだ文化を吸収するために派遣された「遣隋使(607年)」の莫大な旅費や、日本初の歴史書である『天皇記』『国記』の編纂にかかった費用も、すべて蘇我氏の莫大な財力が財源となっていました。太子が行った先進的な政治は、馬子という巨大な後ろ盾があって初めて成立した「共同プロジェクト」だったのです。

なぜ馬子は、自分よりも太子を「前面」に立たせたのか?

では、なぜ日本最高の権力者であった馬子は、自分で表舞台に立たず、聖徳太子を政治の主役として目立たせたのでしょうか。ここに、馬子の恐るべき政治的知性が隠されています。

馬子は、自分が天皇を暗殺したことへの周囲の警戒心や反発を誰よりも理解していました。自分が下手に前に出れば、他の豪族たちの嫉妬や反乱を招き、国がまた乱れてしまいます。

そこで馬子は、以下のような巧みな戦略を取りました。

  • 大王家(天皇家)の血を引き、誰からも文句のつけようがない高貴な身分を持つ、若くて抜群に聡明な聖徳太子を「国の顔」として前面に押し出す。

  • 諸豪族や海外(隋)に対しては、太子のクリーンで知的なイメージをアピールし、内政や外交をスムーズに進めさせる。

  • 自分は一歩引いた安全なポジションから、全体の最高決定権と実利だけを確実に回収する。

のちの『日本書紀』は、蘇我氏を悪者にするために主従関係を意図的に逆転させ、太子だけを神格化しました。しかし実際の歴史では、馬子と太子は対立関係などではなく、お互いの強みを理解し、役割を徹底的に分担し合っていた「冷徹かつ高度なパートナーシップ」で結ばれていたのです。

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5. 現代のサバイバル術:トップに立たず実利を取る「最強のNo.2戦略」

蘇我馬子の波乱に満ちた生き様は、1400年以上の時を超えて、現代の厳しい社会(学校、部活動、会社、人間関係など)を生き抜く私たちに、極めて冷徹で実用的なサバイバル術を教えてくれます。

彼が示したのは、「あえて目立つトップ(主役)にならず、最強のNo.2(影の支配者)として思い通りに環境を動かす」という、綺麗事抜きの生存戦略です。

教訓1:矢面に立つリスクを避け、自分をカモフラージュする「看板」を立てる

学校のクラスでも、部活動でも、あるいは社会に出てからの組織でも、誰もが一度は「一番目立つリーダー(トップ)」を目指そうとします。しかし、トップに立つということは、同時にすべての責任を負わされ、周囲からの嫉妬や批判のターゲット(矢面)になるという最大の弱点を抱えることになります。

馬子はこのリスクを誰よりも正確に見抜いていました。

  • 史実から学ぶポイント

    • 馬子は崇峻天皇を暗殺した後、自分が天皇の座を奪うこともできたはず。しかし、それをやれば他の豪族たちの激しい反発を受け、自分もすぐに暗殺されるリスクが高まる。

    • だからこそ、誰からも文句の出ない高貴な血筋の「推古天皇」をトップに据え、自分は責任とリスクが直撃しない安全なポジションを確保した。

  • 現代のサバイバルへの応用

    • 何か新しい挑戦や改革を始めたいとき、自分が前に出て目立つ必要はない。周囲に認められやすい「看板(適任者)」をリーダーに立て、自分はその人を支えるポジションから周囲を動かしていく。

    • これによって、無用な敵を作ることなく、自分のやりたいことや「実利」だけを確実に実現できるようになる。

教訓2:自分より優秀な人の才能に嫉妬せず、味方につけて使い倒す

人間の心理として、自分の身近に自分よりも頭が良い人や、能力が高い人が現れると、つい嫉妬して足を引っ張りたくなるものです。しかし、それでは自分の世界も組織も小さく縮むだけです。

馬子は、自分より遥かに優秀な若き天才・聖徳太子が現れたとき、大人の余裕と冷徹さでその才能を迎え入れました。

  • 史実から学ぶポイント

    • 馬子は、聖徳太子の圧倒的な知識や国際感覚を一切妬まなかった。それどころか、太子の才能を120%活かして国の大改革(冠位十二階や十七条憲法など)を次々と実行させた。

    • 太子が活躍して国が近代化すれば、その果実は最終的に最高権力者である蘇我氏(馬子)の基盤をさらに強固にするということを、計算し尽くしていた。

  • 現代のサバイバルへの応用

    • 学校のグループワークでも、将来の仕事でも、自分より有能な人がいたら全力でその人を輝かせる役割に回る。

    • その天才の成果が大きくなればなるほど、影で彼らを支え、仕組みを作ったあなたの価値も自動的に跳ね上がる。優秀な人間を敵にするのではなく、「味方(パートナー)」として動かす側になる。

教訓3:個人的な「感情」を完全に排除し、物事をシステムと結果で判断する

多くの人が人間関係や組織のトラブルで悩む原因は、物事を「好き・嫌い」や「かわいそう」「腹が立つ」といった個人的な感情で判断してしまうからです。しかし、厳しい環境を勝ち残るためには、時には感情を100%殺して、合理的な「結果」だけを見る目が必要になります。

  • 史実から学ぶポイント

    • 馬子にとって崇峻天皇は、自分が選んで即位させた、いわば身内。しかし、その天皇が感情的になって暴走し、国家や蘇我氏を危機に陥れる兆候を見せた瞬間、馬子は私情を一切挟まずに排除(暗殺)した。

    • すべては「一族の生存」と「国家の安定」という、揺るぎない最優先の結果から逆算して行動していた。

  • 現代のサバイバルへの応用

    • 何か大きな目標を達成したいとき、あるいはトラブルに巻き込まれたときは、「誰が正しいか」「誰が嫌いか」という感情の泥沼に付き合ってはいけない。

    • 「どうすればこの状況が一番綺麗に収まるか」「全体の利益になる結果は何か」というシステム思考に徹することで、迷いのない、最も正しい一手を打つことができる。

実利を選んだリアリストの生き方に、あなたは何を学ぶか

後世の「勝者」によって改ざんされた逆臣のレッテル

私たちはなぜ、蘇我馬子を「絶対的な悪人」だと思い込んでいたのでしょうか。 その理由は、馬子が亡くなった後に起こった、日本史最大のクーデター「乙巳の変(いっしのへん・645年)」にあります。

馬子の孫である蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)らは、自分たちの武力クーデターを正当化しなければなりませんでした。彼らが作った歴史書『日本書紀』において、蘇我氏は「天皇をもしのぐ権力を貪った、傲慢で邪悪な一族」として徹底的に悪く書かれることになったのです。

しかし、ここまで史実を紐解いてきたあなたなら、もう騙されないはずです。勝者が残した歪んだ記録の裏側にいたのは、以下のような本物の政治家でした。

  • 私欲ではなく、国家の「存亡」と「近代化」のために戦った男

  • 伝統や因習に縛られず、仏教という「最先端テクノロジー」を日本に定着させた開拓者

  • 天皇の暴走という国家の危機に対し、冷徹な「危機管理(暗殺)」を執行したリアリスト

  • 聖徳太子という「天才」を輝かせ、自分は最も安全な場所から国を動かした希代のプロデューサー

馬子がもしあの時代に存在していなければ、日本は物部氏らによる内乱でバラバラになり、アジアの大帝国「隋」に飲み込まれていた可能性すらあったのです。

お飾りのトップで消耗するか、影の支配者として果実を手にするか

馬子の生き方は、学校、部活動、社会など、あらゆる組織に属する現代の私たちに「大きな問い」を突きつけています。

誰もが拍手喝采を浴びる「主役(トップ)」になりたがります。しかし、一番目立つ場所に立つということは、すべての責任とリスクを一身に背負い、周囲からの嫉妬や批判の矢面に立つということです。もしそのトップが、実権を持たない「お飾り」だったとしたら、これほど割に合わないポジションはありません。

馬子が選んだのは、その真逆です。

  • 目立つ看板(推古天皇や聖徳太子)を前線に立ててリスクを完璧に回避する

  • 周囲の嫉妬をかわしながら、「最高決定権」という一番おいしい実利だけを握り続ける

名前や名誉といった「プライド」を捨てて、組織を思い通りに動かす「実利」を取る。この馬子の徹底した合理主義は、他人の目線や評価ばかりを気にして疲弊しがちな現代人にとって、極めて強力なサバイバル武器になるはずです。

次回予告:馬子の孫「蘇我入鹿」の致命的なミスから学ぶ、組織崩壊のトリガー

蘇我馬子が築き上げたこの「無敵の支配システム」は、当時の日本において完璧に機能していました。しかし、この完璧なシステムは、馬子の死後、わずか2代あとの孫・蘇我入鹿(そがのいるか)の時代に、あっけなく大崩壊を迎えることになります。

なぜ、最強を誇った蘇我氏は滅ぼされてしまったのか。 それは、孫の入鹿が、祖父である馬子が絶対に守り抜いていた「ある鉄則」を破ってしまったからです。

  • なぜ入鹿は、馬子が犯さなかった「致命的なミス」に手を染めたのか?

  • 聖徳太子の息子(山背大兄王)を自害に追い込んだ、入鹿の焦りと計算違いとは?

次回は、蘇我氏滅亡の引き金となった「乙巳の変」を舞台に、どれほど強大な組織であっても一瞬で崩壊する「致命的なトリガー」を史実から紐解きます。お楽しみに。


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