【日本史の謎】かつて城は3万もあった?現存12天守と国宝5城の秘密を徹底解説

現存12天守と国宝5城の秘密を徹底解説

現存12天守と国宝5城の秘密を徹底解説

「日本のお城」と聞いて、あなたが見上げる天守閣。実は、あれが「本物の歴史」を今に伝える姿ではないかもしれないと知ったら、どう驚かれますか?

現代の私たちが観光地で目にする立派な大天守の多くは、昭和以降にコンクリートなどで建て直された「復元」や「模擬」の建築です。では、江戸時代より前から一度も失われずに生き残った、本当の意味での「リアルな戦国・江戸の遺産」は、日本にいくつ残されているのでしょうか。

答えは、わずか「12箇所」しかありません。

さらに、その中から最高峰の文化財として「国宝」に指定されているお城は、たったの「5箇所」です。

かつて、この狭い日本列島には「3万以上」もの城がひしめき合っていました。それがなぜ、現代にはこれほどまでに激減してしまったのか。

この記事では、日本史博士である私が、以下の謎と秘密を徹底的に解き明かします。

  • 数万基におよぶ城が日本全国に乱立していた歴史的背景

  • 99%以上の城が歴史の表舞台から消え去った「2つの大事件」

  • 落雷・大火・戦争を奇跡的に生き延びた「現存12天守」の正体

  • 建築学・歴史学の視点から選ばれた「国宝5城」が持つ唯一無二の価値

この記事を読み終えた時、あなたのお城巡りの景色は180度変わります。ただの観光地ではない、血の通った歴史のドラマを一緒に紐解いていきましょう。

かつて日本には3万以上の城があった?お城の数に隠された歴史の真実

「日本には、かつて3万から5万もの城があった」

そう聞くと、多くの人は「そんなにたくさんの天守閣が日本中に乱立していたのか」と驚くはずです。しかし、ここに大きな誤解があります。

なぜ、これほどまでに膨大な数の城が存在したのか。その理由は、私たちが頭に思い浮かべる「お城」のイメージと、歴史上の「城」の定義がまったく異なるからです。

私たちがイメージする「お城」と、歴史上の「城」は違う

現代の私たちが「お城」と聞いてイメージするのは、高い石垣の上にそびえ立つ豪華な天守閣や、白壁の櫓(やぐら)ではないでしょうか。

しかし、日本史においてそのような姿をした城(近世城郭)が登場するのは、室町時代末期から安土桃山時代にかけて、織田信長や豊臣秀吉が活躍した時代以降のことです。それ以前の数百年間に作られた大半の城は、全く異なる姿をしていました。

歴史上に存在した3万以上の城のほとんどが、「土の城(中世城郭)」と呼ばれるものです。
その特徴は以下の通りです。

  • 天守閣も石垣もない: 山の尾根を削って平らな陣地(郭/くるわ)を作り、周囲に土を盛り上げた堤(土塁/どるい)や、溝(堀)を掘っただけのシンプルな構造でした。

  • 主要な建物は木と萱(かや): 豪華な御殿ではなく、敵を見張るための臨時の小屋(物見櫓)や、兵が寝泊まりするシンプルな板張りの建物が中心でした。

  • 砦や館もすべて「城」: 現代でいう「前線基地」や「臨時の砦(とりで)」、地域の有力者が住む防衛機能付きの屋敷(居館)も、歴史学・考古学上はすべて「城郭」としてカウントされます。

つまり、日本全国の山々や要所に作られた無数の「臨時の砦」や「防衛用の陣地」をすべて足し合わせた結果が、「3万」という途方もない数字の正体なのです。

なぜそんなに必要だったのか?戦国時代のリアルな防衛戦略

では、なぜそこまで大量の砦や陣地を作る必要があったのでしょうか。そこには、戦国時代ならではの過酷な社会背景と、リアルな防衛戦略がありました。

  • 地元の領主たちによる「自衛」のため: 戦国時代は、いつ隣町の勢力が攻めてくるか分からない時代でした。そのため、国人(こくじん)と呼ばれる地元の小規模な領主たちは、自分の領地と領民を守るために、競い合うようにして裏山に独自の城(山城)を築きました。

  • 「村の城」の存在: 驚くべきことに、武士だけでなく農民たち自身が、合戦に巻き込まれた際に財産や命を守るために作った「村の城(逃げ込み城)」も多数存在しました。

  • 戦国大名による「防衛ネットワーク」の構築: 武田信玄や上杉謙信、毛利元就といった強力な戦国大名たちは、領土の境界線や交通の要所に何十、何百という細かい砦を配置しました。これらを狼煙(のろし)や伝令で繋ぐことで、敵の侵入をいち早く察知して迎撃する「防衛システム」として機能させていたのです。

戦国時代の日本列島は、まさに網の目のように城が張り巡らされた「超重武装社会」だったと言えます。

なぜ99%の城が消えたのか?お城が激減した「2つの歴史的事件」

かつて日本全国に3万以上も存在した城ですが、現代にその姿を留めているものはごくわずかです。

なぜ、これほどまでに多くのお城が歴史の表舞台から姿を消してしまったのでしょうか。そこには、日本の支配構造を根本から変えた「2つの歴史的事件」、そして近代化にともなう「戦争の悲劇」がありました。

幕府の圧倒的な政治力「一国一城令(1615年)」

最初の大量破却は、戦国時代が終わりを告げた直後に起こりました。1615(慶長20)年、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした江戸幕府(徳川家康・秀忠)が発令した「一国一城令(いっこくいちじょうれい)」です。

この法令の目的は、諸大名の軍事力を削ぎ、幕府への反乱を防ぐことにありました。これにより、日本の城の数は一気に激減します。

  • 法令の内容: 大名が居住し、政務を行う主城(居城)を「一国(または一藩)」につき1つだけ残し、それ以外のすべての城や砦はすべて破壊しなければならないという厳格なルールでした。

  • 実施のスピード: 驚くべきことに、この命令が出されると、諸大名たちは幕府への恭順の意を示すため、わずか数日間のうちに自領の城を次々と取り壊しました。

  • 減少の規模: 諸説ありますが、この一国一城令だけで、日本全国にあった数千から数万規模の城郭や砦の大部分(一説には約9割)が解体・破却されたと言われています。

この事件によって、日本は「無数の砦が乱立する戦国社会」から「1つの拠点から領地を統治する江戸社会」へと完全にシフトしたのです。

近代化の波と戦争の悲劇「廃城令(1873年)」と太平洋戦争の空襲

江戸時代の約260年間を生き抜いたお城(各藩の居城など)を、次に襲ったのが明治維新という時代の激変でした。1873(明治6)年、明治政府によって「廃城令(明治6年太政官達第24号)」が布告されます。

  • 廃城令による処分: 天下平定によって軍事施設としての役割を終えたお城は、新政府(陸軍省)の管理下に置かれました。その際、軍事的に必要な「存城(ぞんじょう)」と、不要となった「廃城(はいじょう)」に分けられました。

  • 容赦のない解体と売却: 廃城とされたお城の多くは、敷地が軍用地(連隊の駐屯地など)や学校に変えられ、天守や櫓などの建造物は民間に払い下げられました。当時は「過去の遺物」として価値を認められず、薪(まき)の材料として安値で買い取られ、取り壊された城が相次ぎました。

  • 奇跡のサバイバル: 姫路城や彦根城、松本城などは、地元の有志による買い戻し運動や、陸軍関係者の助言などによって、文字通り「奇跡的」に破壊を免れました。

  • 太平洋戦争の空襲という最後の悲劇: 明治の廃城令を生き延び、国宝(旧国宝)などに指定されて守られていた貴重な天守閣を、さらなる悲劇が襲います。1945(昭和20)年の太平洋戦争末期、名古屋城、広島城、和歌山城、大垣城、岡山城、水戸城などが、米軍による空襲(焼夷弾)の被害に遭い、次々と炎上・焼失してしまったのです。

私たちが今、木造の「現存天守」を目にすることができるのは、これらすべての歴史の荒波をくぐり抜けた、まさに0.04%の奇跡の結果なのです。

奇跡の生存率!現代に残る「現存12天守」の価値とは?

前の章でお話しした通り、数万あった日本の城は、一国一城令、廃城令、そして太平洋戦争の戦災という3つの荒波によって、そのほとんどが消滅しました。

そんな絶望的な歴史をくぐり抜け、江戸時代以前に建てられた天守(お城の象徴である主塔)が、一度も失われずに当時の姿のまま現代に残っているものを「現存天守(げんそんてんしゅ)」と呼びます。

その数は、日本全国にわずか「12箇所」しかありません。確率にして、かつての城の約0.04%という、まさに奇跡の遺産です。

大半はコンクリート?「現存」と「復元・模擬」の決定的な違い

「え? 大阪城や名古屋城、熊本城だって立派な天守閣があるじゃないか」

そう思われる方も多いでしょう。しかし、ここに落とし穴があります。私たちがよく知る有名なお城の多くは、歴史学・建築学の上では「現存天守」とは呼ばれません。お城の天守は、大きく分けると以下の3つのタイプに分類されます。

  • 現存天守(12城):

    • 江戸時代以前(古いものは戦国時代)から、倒壊や焼失を免れて現代まで生き残った「本物の木造建築」。柱の一本一本に、当時の大工のノコギリの跡や、武士たちが触れた歴史が刻まれています。

  • 復元天守(多数):

    • 大阪城、名古屋城、熊本城などがこれに当たります。明治の廃城令や空襲などで一度完全に失われた後、昭和から令和にかけて、絵図や写真を元に外観を再現して建て直されたものです。

    • その多くは内部がエレベーター付きの「鉄筋コンクリート造りの博物館」になっており、建築物としての歴史的価値は現存天守とは大きく異なります。

  • 模擬天守(多数):

    • 熱海城や墨俣城などのように、歴史上そこには天守閣がなかったにもかかわらず、観光目的や地域のシンボルとして想像で作られたものです。

「有名で大きなお城=歴史的価値が高い」とは限らない。これこそが、お城の世界の最大の秘密です。数百年間、火災やシロアリ、落雷、そして空襲から守り抜いた地元の先人たちの血のにじむような努力があって初めて、現存天守は今そこに立っているのです。

今も見られる「現存12天守」全一覧

現在、日本で拝むことができる奇跡の12天守をすべてご紹介します。

  • 弘前城(青森県弘前市): 東北地方で唯一の現存天守。コンパクトな3重の天守で、桜の名所としても世界的に有名です。

  • 松本城(長野県松本市): 五重六階の堂々たる漆黒の天守。アルプスの山々を背景にした美しさは圧巻です。

  • 丸岡城(福井県坂井市): 寒冷地ならではの「石瓦(いしがわら)」で屋根が葺かれている、非常に珍しい最古級の天守です。

  • 犬山城(愛知県犬山市): 木曽川沿いの断崖絶壁に建つ望楼型の天守。天守最上階からの眺絶は一見の価値があります。

  • 彦根城(滋賀県彦根市): 多彩な屋根の装飾(破風)が美しい優美な城。国宝の「ひこにゃん」でもお馴染みです。

  • 姫路城(兵庫県姫路市): 「白鷺城」の異名を持つ日本最大級の城郭。世界遺産にも登録されている現存天守の最高峰です。

  • 備中松山城(岡山県高梁市): 標高430メートルの山頂に建つ、日本一高い場所にある「天空の現存天守」です。

  • 松江城(島根県松江市): 実戦を意識した漆黒の下見板張りが特徴。2015年に熱烈な調査の末、国宝に再指定されました。

  • 丸亀城(香川県丸亀市): 日本一の高さを誇る美しい曲線美の石垣(扇の勾配)の上に、小ぶりな現存天守がちょこんと佇んでいます。

  • 伊予松山城(愛媛県松山市): 松山市の中心にある城山山頂に位置し、複数の櫓と天守が強固に結ばれた「連立式」の構造が見事です。

  • 宇和島城(愛媛県宇和島市): 藤堂高虎が築城し、伊達氏が改修。現存天守としては珍しく、平和な時代に建てられたため装飾が非常にエレガントです。

  • 高知城(高知県高知市): 天守だけでなく、本丸御殿や追手門など、本丸の建築群が丸ごと現存している極めて貴重な遺構です。

最高峰の文化財!厳選された「国宝5城」の秘密

江戸時代以前の姿を今に伝える「現存12天守」。その中でも、文化財保護法に基づき、国が「世界の宝であり、人類の文化の見地から価値の高いもの」として最高峰の評価を下したのが「国宝5城(こくほうごじょう)」です。

かつては「国宝4城」と呼ばれていましたが、2015年の歴史的発見により1城が追加され、現在は5つの名城がその栄誉を担っています。なぜこの5つだけが特別視されるのか、その理由と驚くべき秘密を解き明かします。

なぜこの5つだけ?国宝に選ばれた建築学的・歴史的理由

現存12天守はどれも貴重ですが、国宝に指定されるには非常に厳しい基準をクリアしなければなりません。国宝5城が選ばれた背景には、以下のような決定的な理由があります。

  • 「天守の原点」を今に伝えている:

    • 織田信長や豊臣秀吉の時代に生まれた初期の天守の構造(望楼型など)や、江戸時代初期の完成された建築様式が、ほぼそのままの形で残っているためです。

  • 保存状態が極めて良好である:

    • 柱や梁(はり)といった主要な構造部材が当時のまま残っており、後世の大規模な改変が少なく、築城当時の設計思想を100%現代に伝えている点が評価されています。

  • 歴史を証明する「決定的な証拠」が見つかった:

    • 2015年に松江城が国宝に指定された最大の理由は、城の創建年(1611年)を証明する「地札(祈祷札)」が周辺の神社で奇跡的に見つかったことです。これにより、歴史的・学術的な価値が完全に証明され、国宝昇格を果たしました。

国宝5城の際立つ特徴と見どころ

それでは、日本が世界に誇る国宝5城の具体的な特徴と、絶対にその目で見るべき見どころを歴史博士の視点で解説します。

  • 姫路城(兵庫県)〜世界を魅了する白鷺の城〜

    国宝|姫路城

    国宝|姫路城

    • 歴史と特徴: 池田輝政によって建てられた、現存天守の中で最大規模を誇る名城です。1993年には、奈良の法隆寺とともに日本で初めてユネスコの世界文化遺産に登録されました。

    • 見どころ: 白漆喰総塗籠造(しろしっくいそうぬりごめづくり)と呼ばれる、壁全体を真っ白な漆喰で塗り固めた優美な外観。そして、大天守と3つの小天守を渡櫓で繋いだ「連立式天守」による、隙のない完璧な要塞美は圧巻の一言です。

  • 松本城(長野県)〜アルプスに映える漆黒の要塞〜

    国宝|松本城

    国宝|松本城

    • 歴史と特徴: 戦国時代末期に造られた、現存する中では最古の「五重六階(外観は5階、内部は6階)」の天守です。姫路城とは対照的に、黒い下見板(木製の板)で覆われた「漆黒の城」として知られています。

    • 見どころ: 戦国期の「実戦用の天守」と、江戸時代に増築された平和な時代の「辰巳附櫓(たつみつけやぐら)・月見櫓」が一体化した複合建築である点です。一つの場所で、戦争の時代と平和の時代の建築が融合しているのは松本城だけです。

  • 犬山城(愛知県)〜木曽川の断崖に立つ最古級の望楼〜

    国宝|犬山城

    国宝|犬山城

    • 歴史と特徴: 天文6(1537)年に織田信長の叔父・織田信康によって築かれたと伝えられる、現存天守の中で「最古の様式」を残すお城です。

    • 見どころ: 木曽川沿いの小高い山(断崖絶壁)の上に建てられた、戦国時代ならではのロケーション。天守の最上階には「回縁(まわりえん)」と呼ばれる外側のベランダのような廊下があり、手すりの低さも相まって、当時の殿様と同じスリリングかつ壮大な景色を体感できます。

  • 彦根城(滋賀県)〜泰平の世を飾る芸術的な美しさ〜

    国宝|彦根城

    国宝|彦根城

    • 歴史と特徴: 徳川四天王の一人、井伊直政の遺志を継いだ息子の直継らによって、幕府の全面的な支援(天下普請)のもと、約20年の歳月をかけて築かれました。

    • 見どころ: 屋根に施された「切妻破風(きりづまはふ)」や「唐破風(からはふ)」など、多彩で豪華な装飾です。戦国時代の荒々しさが消え、大名の権威を示すための「見せる建築」としての芸術性が極限まで高められています。

  • 松江城(島根県)〜実戦本位を貫いた漆黒の正統派〜

    国宝|松江城

    国宝|松江城

    • 歴史と特徴: 関ヶ原の戦いの功臣である堀尾吉晴によって築かれました。2015年、島根県や市民の熱狂的な調査・運動の末、59年ぶりに「国宝」へと返り咲いたドラマを持つお城です。

    • 見どころ: 完全に戦闘を意識した「実戦本位」の構造です。天守の柱には、太い木材が不足していた時代背景を物語る「包板(おおいいた)」という鉄輪で補強された独自の技術が見られます。また、城内には日本一深いと言われる、籠城戦用の井戸が今も残っています。

お城の歴史を知ると、日本の旅がもっと深くなる

私たちが普段、何気なく観光で訪れている日本のお城。しかし、その背景にある歴史の数字を並べるだけでも、そこには壮絶なサバイバルのドラマがあったことが分かります。

ここで、今回ご紹介した重要な事実をもう一度振り返ってみましょう。

  • かつて日本には3万〜5万もの城があった: その大半は天守閣を持たない戦国時代の「土の城(山城や砦)」であり、日本全体が張り詰めた防衛ネットワークだった。

  • 激減の引き金となった2つの大事件: 江戸幕府による「一国一城令(1615年)」で約9割が破却され、明治政府の「廃城令(1873年)」と太平洋戦争の空襲によって、さらにその多くが失われた。

  • 奇跡の生存率「現存12天守」: あらゆる破却の危機と戦火を免れ、江戸時代以前からの木造建築を今に伝える城は、全国にわずか12箇所しか残っていない。

  • 最高峰の文化財「国宝5城」: 12城の中でも、建築学的・歴史的に極めて価値が高い「姫路城・松本城・犬山城・彦根城・松江城」の5つだけが、国の至宝として指定されている。

次にあなたがお城の門をくぐる時、目の前にある天守閣が「昭和以降に建て直されたコンクリートの復元天守」なのか、それとも「武士たちの息遣いがそのまま残る奇跡の現存天守」なのかを、ぜひ意識してみてください。

3万分の12という、約0.04%の確率を生き抜いた本物のお城の前に立った時、あなたが感じる歴史の重みや旅の深さは、これまでとは全く違うものになるはずです。

日本の歴史は、知れば知るほど目の前の景色を鮮やかに変えてくれます。
さあ、あなたは次、どのお城の歴史に会いに行きますか?


日本の城に関する気になる言葉!

国宝五城

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